2010-03-26

第4回海洋教育セミナー

 日本船舶海洋工学会主催の『第4回海洋教育セミナー』に出席した。会場は昨年新装した横浜みなと博物館に併設されている研修センターで。同学会は,海洋教育フォーラムという催しも開催しているが,セミナーのほうは学会員に対して,フォーラムは学会から外部への情報発信,という位置付けだそうだ。私は学会に所属していないが,海洋教育に携わっている関係で参加させてもらっている。
 本日の講演は次の4本。
1.おもしろ船教室15年の総括(横浜国立大学教授)
 横浜国立大学工学部の海洋空間システムデザイン講座が15年間実施してきた中学生に対する「おもしろ船教室」の概要,これまでの歩み,今後の見通しなど。中高生の理工系進学意欲が減少しつつある現状などをふまえ,船や海洋に対する興味を涵養するための活動を継続してきたことについての総括。
 知識を勉強する企画では子供は来てくれない。楽しい体験をして,それが学びに繋がるような工夫が必要である。
2.横浜みなと博物館における海洋教室~港の観察会と船の工作教室~(横浜みなと博物館)
 横浜みなと博物館が実施している,小学生対象の港の観察会と船の工作教室の概要。港の観察会では,港に出入りする船舶の種類,国籍と隻数などを調べてデータとし,博物館内の図書館所蔵の資料を活用してまとめる活動を行っている。家畜の飼料が海外から運ばれてくることなどに子供たちが気付く様子などが紹介された。
3.帆船日本丸の海洋教室(帆船日本丸船長)
 みなと博物館前の旧三菱船渠1号ドックに係留されている日本丸の海洋教室の紹介。半日コース,1日コース,宿泊コースなどがある。実は,我が娘も小学校5年か6年生のときに1泊2日のコースに参加し,夏休み自由研究のレポートにまとめたことがある。私自身も1983年12月から1984年6月まで三等機関士として乗船し,出入港など主機関を使用する時には右舷機を操縦した懐かしい船である。
4.海や船に関する子供たちの豊かな学びに向けて(きてきて先生プロジェクト代表 香月よう子氏)
 NHK「ようこそ先輩」のプロジェクトに参加して番組を立ち上げた人。
 学校は今外部の人材を必要としている。その外部の人的資源をどのように学校で活用してゆくかという話。いろいろなところで「学力低下」問題が叫ばれているが,それは学校の先生がダメだからでも,親がダメだからでもない。外部の人的資源を活用した教育活動を提案しても,「どの教科のどの単元に当てはめるか,ちょうど当てはめることができても時数が足りなくてそのような教育活動に充てることができない」という,週時間,学期,年間の余裕のなさ,教員の多忙さに問題がある。一方で,子供たちはリアルな体験が非常に不足している。「地球温暖化」とか「エコ」とか「冷房は28度以下に」などの言葉はとてもよく知っているが,その背景にあることについて問うと答えられない。大工仕事を飽かず眺めるとか,近所のおじいさんに怒られたり褒められたり・・・など,学校外の体験から学ぶ機会が不足している。
 そこで,学校外の教育力を活用しようという提案で,学校と外部の人的資源を結びつける役割としての学校教育コーディネータ,キャリア教育コーディネータなどがある。
 たとえば,学校に新聞記者を招いたとする。新聞記者に新聞の講義をしてもらうのではなく,新聞記者が取材するときのメモの撮り方などを実地に子供に見てもらうことのほうがインパクトが大きい。そういう提案をしている。

 私自身は「学校の外」の人間だったのだが,今は「学校の中」の者である。学校の外からの視点を失いたくないと思い続けているが,生徒からは学校の中の者として見られている。この先も,外の人との関わりを持ち続けて,現場に還元したいと考えている。もちろん,自分自身の「外の人」としての経験や視点を活用しながら。

2010-03-06

海洋教育フォーラム

 日本船舶海洋工学会主催の「海洋教育フォーラム」に行った。会場は船の科学館。船員養成を行う練習船や,広く一般に海洋教育を行っている船の船長,長く船員教育に携わってこられた元船長の皆さんの講演9本で盛りだくさんだった。本校の実習船湘南丸の船長も,高校生が遠洋航海実習で育ってゆく様子を詳しく講演した。
 元の上司や先輩の講演もあって,懇親会では懐かしく話をすることができた。



 船の科学館に展示されている南極観測船宗谷。その向こう側は青函連絡船羊蹄丸(ようていまる)。

叔父を想う日

 今日は父に一番歳の近い叔父の命日である。墓碑には「昭和20年3月6日ビルマ国レイクテイラ縣ライデン—タヂ間ニ於テ戦死」と刻まれている。(調べたところでは,レイクテイラはメークテイラ,タジはサジの誤りではないかと思うが,よくわからない。)
 叔父の訃報は,戦後1年過ぎてから,叔父の所属していた部隊の中隊長から祖父宛に詳細な手紙で届いたのだそうだ。その手紙によると,叔父は後方から補給のために夜間行軍し,夜明け頃前線に到着した。前線の上官は叔父たちを案じて,すぐに後方へ退くよう命令したそうだがそれが仇になった。日が昇ってからの行軍になったため,後方に辿り着く前に敵に発見されて攻撃を受け,行方不明となった。その後,前線部隊は後方に帰還し,叔父たちが行方不明になったことがわかった。
 私は子供の頃,毎年のように父の郷里へ帰省し,盆の準備を手伝った。たくさんの墓石ひとつひとつの前に竹の水差しを差込み,榊を供える。そして,父に「これはお祖父さん,これは曾お祖父さん,これは曾お祖母さん」と教えてもらった。他のよりも新しくそして大きな墓石が24歳で戦争に殉じた叔父の墓だった。遺骨も遺髪もない,墓石だけの墓である。
 子供の私には10年という時間の感覚がわからなかったので,戦争がずっと昔の歴史上のことのように感じられたし,見たこともない叔父なので特別な感慨はなかったように思う。しかし、私が生まれる10数年前は戦争中で,生まれてから今日までのほうがずっと長い時間が過ぎていることに思い至ると、第二次世界大戦が昔々のことではなく、自分の出生にまで関わる出来事だったのだと気付く。
 昭和40年ごろ,父は日記に次のように書いている。「大きな宮の境内に全国から集まった入営兵を送る人たちに交じって元気で出掛けた○○の顔,笑って手を振って居た大きな体が今も目に見えるように思ひだされる。」
 戦死した叔父を直接に知る親戚はすでに少なくなってしまったが,祖父母や父の悲嘆が私の胸に刻まれているように思う。叔父に哀悼の意を伝えるすべはないものか。「戦後」はまだ終わっていない。